Story

#001 三木拓也さん
「怪我も病気も、乗り越えるメソッドがスポーツだった」

2024.12.04

車いすテニスを通して世界を舞台に戦う三木拓也選手に「スポーツとの出会いは、どんな豊かさを与えてくれたのか」に関してご本人が感じている「スポーツの力」について伺ってみました。

――三木選手にとって、最初のスポーツとの出会いをお聞かせください。

スポーツは実に小さい頃から馴染みが深く、そのスタートがハッキリいつからとは言い切れませんが、小学生の時はサッカー、そして水泳や卓球も同時に楽しんでいました。特に球技が好きだったのを覚えています。僕は3兄弟なのですが、子ども3人と父との4人でサッカーのミニゲームをしたり、キャッチボールなど、いろんなスポーツをしながら育った幼少期でした。


――そういった環境の中で、テニスとの出会いも。

テニスとの出会いは祖父がテニスを愛好していた影響ですね。そして父が僕のためにラケットを買ってくれたこと、それは非常に印象として残っています。小学6年生の時に、サッカーで壁にぶち当たった時期があって・・・。僕自身かなり負けず嫌いなので、いざ試合に負けたりすると、「もっと練習がしたい!」となったんですが、周囲の仲間はそうでもない…、みたいなギャップに苦しみました。そのギャップを埋めるスキルが当時の自分にはなかったんですよね(笑)。でも、個人競技のテニスは、勝っても負けても自分の責任ですし、課題が明確でした。父と一緒に課題に取り組んで自らの課題を1つずつクリアしていくシンプルさが自分の性に合っていましたし、そこに魅力を感じました。


――中・高校生時代はテニス漬けの生活だったんですね。

実は硬式テニスをしていたのですが、その当時通っていた中学校には硬式テニス部がなかったのでソフトテニス部に入部しました。中学3年生の県総体が終わり、高校入学後に改めて硬式テニスに本腰を入れるため梅津テニス教室というクラブに入りました。そこからはテニス漬けの毎日でしたね。自分が強くなるにつれて、県外に出て中国地方の大会に出たりするようになり、そこで「テニスに情熱を注ぐ熱い人たちがこんなにたくさんいるんだ」という現実を初めて知ったりもして・・・。僕の場合はジュニアの頃からプロを目指していた訳ではなかったのですが、そうした人たちとの出会いが転機となって、高校時代には、すっかりテニスが生活の中心になっていましたね。


――病気が発覚したのも高校生の時でした。

高校3年生の11月に病気が発覚しました。その頃には大学でもテニスを続けたいと思い、体育大学を志望していました。実技試験の練習をしていた時に膝を痛め、レントゲンを撮ったら「骨に影があるので大きい病院に行ってください」と言われました。
そこから3日後には入院、病名は「骨肉腫」でした。骨肉腫は若いと進行も早いということから、できる限り早く検査し治療を進めることになりました。しかしながら気持ちは全然追いつかなかったですね。将来もテニスに関わろうと思い、体育大学に進学することを自分の中で決めた矢先のことでしたから。

今でこそ「こういう競技(=パラスポーツ)があるよ」という前向きな話が周りからもあるかと思いますが、まだ当時はパラスポーツに関する情報がほとんどなかった時代ですから、担当医からは「残念ですが、スポーツはもうできません」と言われてしまったんです。生きるか死ぬかより容易に想像できるその一言が辛かったです。手術が終わりリハビリをしていても、「もう走れないんだよね・・・? リハビリを続ける意味あるの・・・?」といった絶望感だけがあって。「リハビリをしなくてもよくない?」など自問自答しつつ(リハビリを)なかなか本気になれなかったです。


――そうした状況から、車いすテニスとはどのように出会われたのでしょうか。

病院にいた時にYouTubeを見せてもらいました。それが国枝慎吾選手の試合の動画でした。それまでは車いすテニスなんて、見たことも聞いたこともなかったですし、パラスポーツそのものをまったく知らなかったですからね。でも、動画を見てそこにスポーツを感じましたし、「テニスできるじゃん!」って、前向きになれました。そこからは行動が早かったですね。まずは車いすテニスが「練習できる環境はどこだろう」って探しました。当時は車いすテニスができる場所って少なかったんです。僕自身は「試合に向けてしっかりと練習を積んで競技力を上げていく」そんなことを思い描いていたので、そういった練習環境を探しました。


――車いすテニスという競技が持っている「可能性」については、どのようにお考えでしょうか。

車いすテニスは健常の人たちと一緒にプレーすることもできるので、それは一つの大きな魅力だと思います。現に車いすバスケなどは大学の授業などでも取り入れられています。車いすテニスのレベルも、僕が始めた頃はツーバウンドで返すのが当たり前でしたけど、今はトップレベルの選手だとツーバウンドで打つ人はほとんどいない程レベルが上がっています。車いすは横移動が難しいんです。当たり前のようにサイドステップで横移動するようなプレーができないため、横方向に動くためには車いすをグルっと回るように一回コートに背を向けることもあるんですよ。でも、最近はコートに対して車いすを横に向けてワンプッシュして走らせて打つ、この動作がすごく速くなっていて健常の方たちと一緒にプレーを楽しめるレベルになってきています。見えない隔たりのない輪が今後広がっていくといいですよね。
――その輪がまだ広がっていない理由として、何が壁になっているのでしょうか。

ニューミックスというダブルス(車いす使用者と健常者の二人が一組となって行う)があるように、車いすテニスは健常の人たちと一緒にプレーできるんですが、そういったことがまだ普及段階であまり一般的ではなく、テニスと車いすテニスがまったく別の種目のように扱われがちであることですかね。
僕は、車いすテニスを始めてから、高校時代のテニス仲間と「もう一度テニスしたいな」というのが一つの目標でした。それはすでに達成でき、「とても嬉しかった」ことを覚えています。そういう車いすのプレーヤーと健常者が一緒にテニスをする機会を増やしていく、さらには子どもたちがテニスをしている隣のコートで車いすテニスもプレーされているのが当たり前、というボーダレスな環境で大人へと育っていくことも長い目で見て大事なことだと思います。

――健常者も一緒に楽しみながら、ハンディーに特化せずに上位で戦う場があっても面白そうですね。車いすテニスを経験してからテニスを見る視点も変わりましたか。

一つのスポーツとしては共通のカテゴリーですけど、見るアングルがちょっと違うから、どちらも経験しているので面白い見方ができるようになりましたね。車いすテニスはジャンプもできないし、サイドステップもできないといった身体的な制約がある分、力の伝え方や動きをより精密にする必要があります。「健常者としてプレーをしていた時代、これをもっとやっとけばよかったな」と思うこともありますし、テニスで良し、とされている技術も車いすテニスの視点からすると違う可能性があったりするのかなと思うこともあります。

――世界で活躍されている三木選手は、希望を与える存在です。どんなことを伝えていきたいですか。

やっぱり「可能性」ですかね。
自分の場合は、怪我もあり大病も経験したけれど、それがきっかけで日本を離れて海外に出て、トップを目指してテニスをする環境に入ることができました。「ピンチはチャンス」と言われるように、何がきっかけになるかなんてわかりません。「可能性」は、どんな状況でも探してもらえたら嬉しいなと思います。

――アスリートには競技生活を支える人たちが多くいると思いますが、その方々にメッセージがあればお聞かせください。

怪我をした時に、怪我の原因を突き止めてくれたのは理学療法士やトレーナーの人たちでした。2018年から1年間、怪我で選手として活動できていない期間も、トヨタ自動車やグローブライドが離れず支えてくれたのも大きかったです。テニスギアは当然ですけれど、車いすテニスの場合には競技用の車いすは感覚的には『骨盤』のような、体の一部という感覚です。そこを支えてくれる人たちがいなかったら、メダルにたどり着くどころか、引退していたかもしれません。車いすの座面はトヨタ自動車で開発してもらっているんですけど、それがなかったらまた怪我が再発していたと思います。困難な局面を乗り越えてこられたのは「やっぱり、人!」その力だと最近特に強く感じています。

――最後に、スポーツを楽しむために必要な「マインド」のようなものがあればお伺いしたいです。

うーん、そもそも楽しむために「マインド」が必要なのかどうか(笑)。
強いて言うなら、「好きであること」じゃないですかね。好きで、自然と夢中になれることがいちばん重要で、それがあるから僕もどれだけ練習が厳しくてもコートに向かうわけです。だから、自分なりの好きや楽しさを見つけてほしいですね。僕にとっては、課題を克服して前に進んでいく過程とか、「こうじゃないか」と考えてそれが形になったりして成長を感じた時が「スポーツをする醍醐味だし、豊かさだ」と思います。怪我も病気もありましたけれど、それらを乗り越えていく過程そのものがスポーツでした。テニスに関しては選手志向ですが、勝ち負けを追求することのないものもいろいろと楽しんでいます。小さい頃は釣りも毎週のように行きましたし、キャンプも好きです。スポーツは出会いもあって、仲間と楽しみを共有するための絶好の場なのでこれからもスポーツを通じて人生を豊かにしていきたいですね。

■プロフィール|三木 拓也(みき・たくや)

車いすテニス選手。トヨタ自動車株式会社所属。
高校時代は硬式テニスで活躍。高校3年生の時、骨肉腫を発症し、左足に人工膝関節を置換。
リハビリに励む中でプロ車いすテニス選手の国枝慎吾さんに影響を受け、車いすテニスを始める。

インスタグラム(@takuya.miki1)
https://www.instagram.com/takuya.miki1/

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■取材編集:高橋有紀

Storyとは「ライフタイムスポーツを楽しむ人たちの物語」

私には私の、あなたにはあなたの。スポーツの楽しみ方は人それぞれ。
⾃然の中で⾝体を動かすライフタイムスポーツを楽しみながら、人生を彩り豊かに過ごしている方は活力があり、魅力にあふれています。 その方たちは決してプロばかりではありません。
このコンテンツ「Story」では様々な楽しみ方で、自然とスポーツとともに日々を過ごしている人たちを取材し、ライフタイムスポーツの魅力とは何かをコンテンツを通して皆さんと一緒に感じていきたいと思っています。