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地球史上もっとも速いスピードで、海は酸性に向かっている

2023.03.15

海洋は大気に存在する約50倍の二酸化炭素を蓄積でき、人間活動で大気に放出された二酸化炭素の約30%を吸収しているのだとか。地球規模で課題となっている二酸化炭素排出による温暖化を抑制するために海洋が果たす役割はとても大きい。しかし今、海洋が吸収する二酸化炭素の量が増えたことによる海洋酸性化の進行が懸念され始めている。近年の研究からは、海洋酸性化が海の生態系や多様性に多大な影響を及ぼしていることもわかってきた。私たちは海洋酸性化にどう向き合えばいいのだろうか。

海洋酸性化とは、海水中の二酸化炭素濃度が高まることで海水のpH(水素イオン濃度指数)が低くなる現象をいう。pH7を中性とし、酸性ではpHが7より小さく、アルカリ性では7より大きい値になる。気象庁の観測によると、現在の海面のpHは8.1程度。「なんだ、まだ酸性になっていないじゃないか」と思った人もいるかもしれない。確かに海洋酸性化が問題視されているとはいえ、現時点で海がお酢のような酸性になっているわけではない。しかし海が少しずつ酸性に向かっていることを、私たちは理解する必要がある。

産業革命以降、人間活動によって大気中に排出された二酸化炭素のおよそ3分の1は海洋が吸収したと推定されていて、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第5次評価報告書によると「産業革命以降の約250年間に、海面付近のpHは全球平均で約0.1低下(10年あたり約0.004低下)した」そうだ。0.1というと小さな数字のようだが、pH0.1の低下は酸性の指標である水素イオン濃度の約26%増加に相当するという。ちなみに日本近海も、1998年から2020年にかけて10年あたり約0.02の速度でpHが低下していることが明らかになっている。10年あたり約0.02というpH低下速度は、全球的なpH低下速度(1990年以降10年あたり約0.019低下)とほぼ同様で、産業革命以降250年間のpH低下速度(10年あたり約0.004低下)をはるかに凌ぐ速さといえる。

1990年と2021年のpHの分布を比較すると、あらゆる海域でpHが低下していることがわかる。1990年以降、全球海面のpHは10年あたり0.019低下している。(気象庁「海面の二酸化炭素・pHの分布図」をもとに作成)

地球環境変動の発生と回復のメカニズムを研究する東京大学 安川和孝准教授は、人間活動によって増加した大気中の二酸化炭素が急速に海水に溶けていることが、海洋酸性化の主要因だとして危機感を感じている。

「地球の長い歴史を振り返ると、地球が温暖化したことは今回が初めてではありません。例えば約5600万年前から5200万年前にかけて、短期的な地球温暖化が繰り返し発生しているのです。中でも最大の温暖化現象がPETM※と呼ばれ、全球的に気温が5℃以上上昇しました。この温暖化から地球環境が元に戻るまでに約17万年を要したとされています。その他の比較的小規模な温暖化でも数万年から10万年程度は温暖期が続きました。こうした温暖化がなぜ生じたかについては火山の噴火など諸説ありますが、私はそれらがいずれも地質学的には短い期間(数万年~10万年)で元に戻るメカニズムに注目しました。過去の研究で、高い二酸化炭素濃度の下では海洋の植物プランクトンが繁茂し、光合成を介して二酸化炭素を有機物に変えて海底に堆積させ、炭素が埋没・除去されていったという説が提案されています。私は海の泥の化学分析とデータ解析を行い、PETMを含む複数の温暖化の回復期に生物生産シグナルが共通して強く現れることを見いだしました。つまり温暖化が進行すると海洋の植物プランクトンが繁茂し、光合成によって大気中の二酸化炭素を有機物に変える。有機物は深海に埋没し、大気中の二酸化炭素濃度が低下する。そして地球は元の状態に戻っていくというわけです。生物生産フィードバックと呼ばれるこの一連のプロセスは、繰り返し起こった温暖化でも普遍的に機能した地球環境の自律的安定化機構であるといえるでしょう」

大気と海洋との間で行われる二酸化炭素のやりとりを通して、温暖化による大気中の二酸化炭素増大、そして海洋酸性化が起こっても、自ら元に戻る力を地球は持っているらしい。しかし現在の温暖化は、これまでの温暖化とは決定的に違うことがある。それはスピードだ。安川准教授は次のように語る。
「今のまま二酸化炭素を排出し続けると、地球はあと140年ほどでPETMと同等の二酸化炭素排出量になる可能性があります。140年というとまだ先のことのように思うかもしれませんが、地質学的なタイムスケールでいうと、ほんの一瞬です。生物生産フィードバックという自然界の回復プロセスのみで地球をただちに元に戻すことは、かなり難しいと言えるでしょう」

IPCC 第 6 次評価報告書によると、人間活動で排出された大気中の二酸化炭素を海洋が吸収することにより、全球平均の海洋表面pHは、今世紀末には19世紀終盤に比べ0.16~0.44 低下すると予測されている。これは、5600万年前のPETMと呼ばれる温暖化の約10倍の速度だそうだ。このような速さで地球が変化していったとき、「極めて複雑なシステムである海洋の生態系に一体何が起こるのか、正確な予測は非常に難しい」と安川准教授も危惧する。

酸性化が海洋の生態系に影響を与えることは、世界各地で指摘され始めた。サンゴ礁では発達や形成が阻害され、プランクトン、貝類、甲殻類などの炭酸カルシウム骨格を形成する生物の骨格形成が難しくなると考えられている。いずれ食物連鎖の先に位置する生物にも影響を及ぼし、海洋の生態系そのものが大きく揺らぐ可能性もある。また海洋が大気中の二酸化炭素を吸収する能力についても、将来その能力が低下する可能性が指摘されている。これは海水が酸性方向に変化してゆく(pHが低下する)ことで、大気中の二酸化炭素が海水に溶けにくくなるからだ。そうなれば大気中に残る二酸化炭素が増え、地球温暖化がますます加速すると思われる。

大気から海洋への二酸化炭素吸収量(全球)を示したグラフ。その量は1990年~2021年の平均で1年あたり炭素換算で約20億トンとなる。海洋の二酸化炭素の吸収量は数年から10年程度の規模で変動しながら全体として増加している。(気象庁「海洋による二酸化炭素吸収量(全球)」をもとに作成)

では今、海洋酸性化について世界はどのような対策をしているのだろうか。「海洋酸性化については世界中で観測が続けられています。観測データに基づいた将来予測も行われています。しかし海洋ですでに起こっている酸性化を元に戻そうとする対策は現状では取られていないと思います。大気中の二酸化炭素濃度が高くなると、単純な物理化学プロセスとして海水に溶け込む二酸化炭素が多くなり、その分さらに酸性化が進んでしまいます。根本的な対策としてはやはり、世界全体として二酸化炭素の排出を抑えることが必要になります」と安川准教授は指摘する。海洋酸性化を始めとする急激な環境変化に、私たちはどう向き合えばいいのだろうか。

「私たち大人世代は、生きている間に地球の気候が変わっていく様子を目の当たりにする稀有な世代です。世界の経済が加速度的に発展するにつれて、温室効果ガスの排出量も増え続け、20世紀に予想されていたよりも急激に気候システムが変わりつつあります。それはもはや生物が適応進化する余裕がないほどの速さです。地球の歴史を振り返ってみても、このような急激な変化は稀です。とはいえ、日常生活の時間スケールとは大きく異なる話なので、普段は意識することもない、あるいは自分に関係することだと考えにくい話だと思います。しかし確実に、今の子どもたちは私たち大人以上にその問題と正面から対峙しなければならない世代だということを、私たち自身が強く意識する必要があります。今後はいわゆる温暖化対策・低炭素社会の実現といった目標に加えて、海洋酸性化を含む気候変動への適応に対する社会的コストも新たに考慮しなければならないでしょう。目の前にいる子どもたちにどんな世界をのこせるかは、まさに私たちの手に委ねられているのです」

さらに安川准教授は、未来を生きる子どもたちには想像力を持って地球環境に向き合ってほしいと語る。
「世界は常に変化し続けています。それは自然環境も含めてです。私たち大人世代は、多少の環境破壊や緑地減少などがあっても根本的には人間がそれを利用して豊かに暮らし続けられるものだと思い込んでいた節があると思います。地球にはそれだけのキャパシティがあるという思い込みです。でもそうではなかった。人間が束になった活動は、惑星レベルで気候や海洋の性質を変えることすらありうるということが分かり始めました。そんな時代の中で、基準となる安定状態を実感として持たないのが今の子どもたちです。海洋酸性化をはじめとする地球環境問題は生活の中で目にするどんな問題よりも長期的、かつグローバルな規模でとらえなくてはならず、地球の裏側や海の中、遠い未来に対する想像力が必要になります。社会としてさらに成長・成熟していくことは諦めずに、それでもなお人類の生きやすい豊かな地球環境を存続させるためにはどんなバランスで世の中を回せば良いか、固定観念にとらわれずにぜひアイデアを出してもらいたいと思っています。そしてそれを実現可能なものにするためのツールとして自然を知り、活用するための科学をしっかり学んでもらえると嬉しいです」

海洋酸性化は私たちにとって大きな問題であるにもかかわらず、自分事として考える人はまだ少ない。しかし海水温が徐々に上がり、魚などの生息域が移動するなど、海洋に何かが起こり始めていることは誰もが感じているはずだ。では日常生活の中で私たちができることは何か。それは二酸化炭素排出を抑えること。これに尽きる。一人ひとりができることは小さくても、それでも行動していくことが、豊かな海を次の世代にのこすことにつながっていくのだ。

※PETMとは、暁新世-始新世境界温暖極大期を意味する「Palaeocene–Eocene thermal maximum」の頭文字をとったもの。約5600万年前の新生代前期に超温暖化が発生した。

参考:気象庁ホームページ「海洋酸性化の知識」「二酸化炭素と海洋酸性化に関する診断表、データ」、気象庁報道発表「日本近海でも海洋酸性化が進行」「海洋酸性化が全球で進行していることが分かりました」、気象庁レポート「海洋の二酸化炭素と海洋酸性化」、文部科学省・気象庁「日本の気候変動2020 -大気と陸・海洋に関する観測・予想評価報告書-」

安川和孝 准教授
東京大学大学院 工学系研究科エネルギー・資源フロンティアセンター准教授。博士(工学)。環境省、東京大学大学院工学系研究科システム創成学専攻を経て現職。「地球の歴史を解読することで遠い未来の世代まで豊かな自然環境をのこす」という想いを研究のモチベーションとする。

取材編集:帆足泰子

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