Story

#035 井上想良さん(後編)
—競技を離れて見えてきた、テニスとの向き合い方。

2026.07.09

テニス一筋で駆け抜けてきた日々を経て、自らの意志で芸能の道へ進んだ井上想良さん。
後編では、役者として歩む今の心境や、競技から離れたことで見えてきたテニスとの新たな関わりかたについて話を聞いた。

テニスで培った根性を活かし、ガムシャラに芝居に打ちこむ日々。
その過程では、イライラや僻み、悔しさなどに直面することもあった。周りが見えなくなってしまうこともあった。

「焦るんですよね。この仕事って、2年後も続けられている確約はないし、なんなら明日だってどうなってるかわからない。何か些細なことで、仕事がゼロになる可能性だってある。そう思ったら、休むのがすごく怖くて。休みの日でも映画を観たり、いろんな人と会って芝居の話をしたり、とにかく何かしていないと不安でした。」

不確実性の高い世界に飛び込んだゆえの苦悩と戦っていた井上さん。しかし今は、ほどよい距離感と熱量で、芝居に向き合えているという。

「あるとき、休んでいる時間でも得られるものってあるなって思ったんですよね。売れている人でも、休む時はちゃんと休むし、それでいいのかなって。ガムシャラにやっていることで、逆に得られないものもあると気づいたというか。
いろんな経験が積み重なって、自然とそういう考えに気づきました。なんとなくですけどね。基本的になんとなく生きているので(笑)。」

おどける仕草は、照れ隠しの表れか。飾らない言葉を紡ぐ素顔は、年相応の優しい青年である。しかし次の瞬間には、プロの眼差しで「誰かの真似をしなくていいって思えるようになったのが大きいかな」と切り出した。


「誰かを真似しても、その人にはなれないんだって、芝居を通して実感したんですよね。憧れていても、結局オリジナルには勝てないし。なんなら、自分の強みまで失う可能性すらある。

先輩にも言われたんですよ。『憧れって、一番遠い存在だよ。誰かになろうとしていたら、なりたい自分をもっと遠ざけることになる』って。」

受け取った言葉を素直に吸いこみ、自身の生き方に反映していく姿勢も、愛される理由のひとつなのだろう。さらに彼は「先輩から『かっこつけるなよ』と言われたんです」と続けた。

「『諦めろよ。逃げろよ。いいんだよ、それで』と言われて、本当に驚きました。だって、諦めるのは悪いことだと思っていたから。

でも、実際に諦めたからこそ見えることもあったんですよ。たとえば家族って、『この人はこういう人だからな』って受け入れている部分があるじゃないですか。無理に変えようとしなくなるというか。それって、諦めというより、相手をちゃんと理解した結果なんだと思うんです。だから、諦めるというより受け入れるに近いのかなって。

自分ができることにも限界がありますからね。そういう考え方があると知ってからは、“諦めるのも悪くないな”って思えるようになりました。」

自身の経験や周りの影響を受けながら、柔軟な姿勢で常に吸収・成長していく。なかでも「勝ち負けとの向き合いかた」は大きな変化のひとつだ。

「芝居って、スポーツと違って勝ち負けがある世界じゃないんですよね。そう思うようになってからは、賞へのこだわりも薄くなりました。

役者を始めたころは『アカデミー賞を獲る』なんて言ってましたけど、わかりやすい目標が欲しかっただけで。芝居の世界には、テニスのように全員一致の1位は存在しない。明確な指標がない以上、勝ち負けに縛られてもしょうがないと思うようになったんです。

だって、100人を感動させた芝居と1人の命を救った芝居を、どちらが素晴らしいかなんて比較できないじゃないですか。今は役と作品に徹することだけを考えて、芝居に臨むようにしています。」

ひとつひとつの経験を糧にして、着実に歩みを進めてきた井上さん。しかし、その役者人生を「順風満帆だと思ったことはないですね」と評した。

「ひとつ問題を乗り越えたと思ったら、また別の問題が出てきて、きりがない。ずっとこの繰り返しなんだろうなって思ってます。

でも、自分が望んで始めたことだから、逃げたくなったことは一度もありません。テニスのときより、自分の意思で向き合えている感覚が強いのかもしれません(笑)。

自分で『やる』って決めた以上、結局のところ責任も自分にある。そこは、自ら「やりたい」って一歩踏み出した人の強みなのかもしれないですね」

しっかりとした決意と適度な軽やかさが、言葉の節々がから滲み出る。「好き」を仕事にし、トライ&エラーを繰り返していく彼に、壁にぶつかったときの対処法を訊いてみた。

「まずは慌てないことですかね。焦ると見えなくなるものもあるので。視野も狭くなっちゃうし、時間に余裕を持って動いて、なるべく冷静に判断するようにしています。」

自然体に言葉を紡ぐと、はにかみながら「僕もできるようになったのは、2年前くらいなんですけどね」と付け加えた。役者人生で培ったひとつひとつを、丁寧に血肉へ変えてきたことが、その口ぶりから伝わってくる。では、テニスをしていた経験は、今にどのように繋がっているのだろうか。

「時間との向き合いかたは、間違いなく活きてますね。どんなに朝が早い仕事でも、きついとは思わない。なにせ大学生のころは、先輩と同室の寮で生活しながら、5時半にはテニスコートにいましたから。

あとは、諦めない心ですかね。長い時間をかけて向き合ってきたテニスですら続けられたんだから、自分が好きでやっている芝居を簡単に諦めるはずがないじゃないですか。そういう根性やマインドは、テニスの経験が活かされているように感じます。形は変わっても、ひとつのことを追求していた事実に、変わりはありませんからね。

今になって思うと、父には本当に感謝しているんです。自分が『やりたい』と思って踏み出したからこそ、得られたものもある。けれど、『やりたい』と思っていなかったことと向き合うなかでしか、得られないものもあったなって。

仕事だから好きである必要はないし、好きだから続けられるとも限らない。好きだから優れていることもあれば、好きゆえに見えなくなることもある。物事を単純に結び付けず、いろんな角度から見ることが大切なんですよね。競技テニスから離れたことで、そう思えるようになりました。」

やりたいことにも、そうではなかったことにも、一生懸命に向き合った井上さんだからこそ、見える世界がきっとあるのだろう。テニスで培った経験は、間違いなく役者・井上想良に続いている。そして、それは仕事だけにとどまらない。

ここまで、何度も「別にやりたくて始めたわけじゃない」と語られてきたテニスだが、今では余暇を楽しむ相棒になった。スケジュールによって頻度はまちまちだが、多い時には週3回もコートに足を運ぶという。

「競技テニスは22歳で辞めたんですが、その数年後に遊びでやってみたら、初めて『テニスって楽しい』と思えたんです。今の僕にとってテニスは、ストレス発散。暇だなって思う時間も、テニスをしていると満たされるんです。

今なら“生涯スポーツ”といわれている意味もわかる。サッカーやバスケほど身体への負担が大きくないので、年齢を重ねても続けられる。ウェアもすごくオシャレですし。

それに、テニスを通じてコミュニティも広がったんですよね。カメラマンさんやスタイリストさんだけじゃなく、芸能とは関係のない仕事をしている方とも一緒にプレーすることもあるんですよ。

こんなにもいろいろ得られるスポーツって、なかなか無いと思うんです。だから、これからもずっとテニスを続けていきたい。今では本気で思えています。」

瞳を輝かせながらそう話すと「競技としてじゃないと、こんなに楽しいんですね」と屈託なく笑った。ほどよい距離感と熱量でテニスと触れあう井上さんに、「これからどんな役者になっていきたいか」と最後に尋ねてみた。

「目指しているものがちょっと矛盾していて、悩んでいます。いろんなところで活躍できる俳優にもなりたいけど、「この人じゃなきゃ」って思われる俳優にもなりたい。少し前までは、目指している姿があったんですけど、今はまた変わっていて。たぶん、まだ探している途中なのかもしれません。

でも、わからないこと自体には困ってないです。どんな生き物も生まれた瞬間から、死に向かっていくことだけは決まってるじゃないですか。だったら、その途中でやりたいことをやってもいいんじゃないかなって思うんですよね。」

競技としての厳しさも離れてから知った楽しさも、どちらも井上さんにとっては紛れもない“テニス”なのだろう。ひとつのスポーツが、人生の時期によってこんなにも違う表情を見せるのかと、あらためて驚かされる。

“テニススクールの息子”として負けるわけにいかなかったテニスが、今や人と繋がり心を解きほぐし、日常を豊かにしてくれる存在になった。関わりかたが変われば、見える景色も変わる。

井上さんの歩みは、テニスが“人生に寄り添うスポーツ”であることを伝えてくれている。


■プロフィール|井上想良

大分県出身、1998年8月12日生まれ。
映画、ドラマ、舞台と活躍の場を広げる一方、21年間続けたテニスでは全国3位の実績を持つ。競技で培った集中力と芯の強さを武器に、注目作への出演が続く俳優の一人。

Text :ayaka sakai
Photograph:ren fujishige

Storyとは「ライフタイムスポーツを楽しむ人たちの物語」

私には私の、あなたにはあなたの。スポーツの楽しみ方は人それぞれ。
⾃然の中で⾝体を動かすライフタイムスポーツを楽しみながら、人生を彩り豊かに過ごしている方は活力があり、魅力にあふれています。 その方たちは決してプロばかりではありません。
このコンテンツ「Story」では様々な楽しみ方で、自然とスポーツとともに日々を過ごしている人たちを取材し、ライフタイムスポーツの魅力とは何かをコンテンツを通して皆さんと一緒に感じていきたいと思っています。